脇屋義助

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わきやよしすけ
是什么意思

中文简介

脇屋义助(1306~1342),南北朝时代的武将。新田义贞之弟。因住于上野国新田郡胁屋而称脇屋次郎。正庆二·元弘三年(1333)五月随新田义贞攻灭镰仓幕府。翌年随义贞入京,在建武政权的武者所任职。建武二年(1335),足利尊氏在镰仓背反时,随义贞东征,在竹下会战败绩。建武三·延元元年(1336)败于兵库凑川後,与义贞共奉恒良、尊良两亲王入越前金崎城,专从北陆经营。与斯波高经军交战数年,不利而退往美浓,又受到土岐赖远等的攻击,经尾张归还吉野。靠着多年的功绩就任刑部卿。庆历三·兴国元年(1340)前往伊豫,与四条有资等一起为将在地武士组织成南军而尽力。康永元·兴国三年(1342)五月病死于伊豫国府。

日文简介

1301-1342 鎌倉-南北朝時代の武将。
正安(しょうあん)3年生まれ。新田朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)(群馬県)新田郡脇屋を本拠とし脇屋を名のった。兄の新田義貞と北条氏を攻め鎌倉幕府をたおす。足利尊氏が建武(けんむ)政府に反旗をひるがえすと,南朝方として各地でたたかった。南朝方を統率するため伊予(いよ)(愛媛県)にわたったが,康永元=興国3年6月5日病死。42歳。通称は二郎。
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